アメリカ留学から「朝日ジャーナル」編集長になるまで
インタビュー 健康事業総合財団 理事 下村満子さん
下村さんのこれまでの輝かしい経歴には、"女性初の"というフレーズが何回も登場します。女性初の海外赴任特派員、女性初のボーン・上田国際記者賞受賞、女性初の編集長・・・・・。ジャーナリストとして時代の先端を歩き、1973年、アラビア・オマーンに住む日本人との混血の王女ブサイナ姫との単独インタビューの成功という大快挙をスタートに、国際社会を舞台にして数々のインタビューやルポルタージュ等、第一級のお仕事をされてこられました。
現在は医療関係の財団のトップとして新しい分野でもご活躍中です。
その下村さんに若き日のアメリカとの出会いから、その並外れたバイタリティの源泉まで、心も体も元気が出るお話をお伺いしました。
最初のアメリカ留学
私が慶応の大学院生だった1962年当時、アメリカに行ける人は異例中の異例で、外交官か商社マン、フルブライトの留学生くらいでした。そこでアジアから年に一人という狭き門のアメリカのニューヨーク大学大学院に直接奨学金を申し込み、奇跡的にその権利を獲得したのです。英語が完璧にできることというのが条件の一つだったのですが、読み書きはできても会話は得意でなかったので、知り合いのアメリカ人に英語がぺらぺらであるという偽の推薦状を書いて貰いました。若かったのでもう何でもありという感じでしたね。
当然ですが、留学したらすぐに英語が話せないことがばれてしまい、1学期間英語のIntensive course(集中コース)を受けなさいということになりました。ところが奨学資金にはその授業料は含まれていないし、その当時自由に円を交換できるという時代ではなかったのです。そこで学部長のところに日参して「英語を1学期間でマスターするので学費を出してほしい」と必死に頼み、「成果が上がらなければ強制送還ですよ」という条件でやっと許可してもらいました。
それからは昼も夜も土曜も日曜も、ねじり鉢巻で猛勉強の毎日です。しまいには、英語の本に埋もれて死にそうになる夢を見たり、夜遅く帰ると部屋に幽霊が現れるようになったり・・・・・。そして、どうにか1学期でそのコースをパスし、留学が続けられることになったのです。
その当時、寮には90数カ国の留学生がおり、最初日本人は自分だけだと思っていましたが、他にもいるらしいということがわかったのは大分経ってからでしたね。それが川口 順子さん(前外務大臣)。彼女とは気が合ってそれ以来、40年たった今日まで、大の仲良しで、親友中の親友です。
――― その当時、日本はどのようなイメージを持たれていましたか。
日本製品は、今と違い、安いけれどすぐ壊れるというイメージでした。
デパートの地下では、1Dollar Blouse(1ドルブラウス)という日本製品が山積みになってバーゲンをやっているのです。1ドル360円の時代ですが、買って帰ると、袖が左右逆についていたりして・・・・・。日本の留学生というと貧しい、発展途上国から来た可哀想な学生という扱いでした。だから、「週末行く所がなかったら家にいらっしゃい」と、アメリカ人は自分の家庭によく招いてくれました。
夏休みの全米旅行
あの頃、キャサリーン・ヘップバーンの「旅情」という映画があり、普通のOLに外国旅行ができるなんてアメリカって何て豊かな国だろう、おそらく日本では一生かかってもそういう時代は来ないに違いないから、この際見るべきものはすべて見ておこうという気持ちが私にはありました。
そしてこれはアメリカの偉い点だと思いますが、大学にForeign Student Centerという所があり、そこには、「留学生に泊まるところを提供します」という各州の家庭が登録されているのです。そこでこの制度を利用して、99ドルで99日間どこへ行ってもいいというグレイハウンドバスのチケットを使い、夏休みの2ヶ月間で全米を回りました。
泊めてくれる家は決して特別なお金持ちというわけではなく、ごく平均的な家庭で、子供の寝室を私に提供してくれ、子供は両親の部屋のソファーで寝るという風に自然体でもてなしてくれるのです。そしてそれは無料で泊まれたということだけではなく、私にとってとても勉強になりました。ホテルに泊まったのではわからないアメリカのライフスタイルとかculture(文化)、教育の仕方等を学ぶことができたからです。夕飯の時には家族皆でテーブルを囲み楽しく会話をし、私も勿論日本の話をしました。そういう旅をしたのです。
若き日のアメリカとの出会い
若い時にアメリカを見たという経験は、私にとって一つの原点です。
アメリカと言うとワシントンとかニューヨークとか言いますけれど、とんでもない。地方こそがアメリカなのだということがよくわかりました。今だってそうですよ。ほとんど中西部や南部の人たちがアメリカの政治を動かしていて、彼らは非常にconservative(保守的)で宗教心も厚くて道徳的にも厳格で、リベラルな東部の考え方はアメリカのほんの一部でしかないということを、あの旅で私は理解しました。
あの頃はケネディ政権の時代でした。だからキューバミサイル危機も大統領暗殺もニューヨークで体験しました。キューバ危機の時は、これは歴史的な大事件なのですが、本当に核戦争が起きるかもしれないと誰もが思っていましたね。そうなると死ぬことになると。
ケネディ大統領が暗殺された時、私はニューヨークのクィーンズに住む親戚を訪ねた帰りで、地下鉄に向かって歩いていたのですが、道行く人が皆ワーッと叫んだり泣いたりしているのです。皆、気が狂ったのかしらと不思議に思い、ショーウインドーのテレビを覗いて初めて暗殺を知りました。急いで寮に帰ったら上を下への大騒ぎでした。そして、テレビを見ている最中に、オズワルドという犯人らしき男が連行される途中、目の前で撃たれて死んでしまったのです。
私は親に「アメリカは何かが狂っている。こんな文明国なのに銃コントロール(規制)に反対で、憲法で銃を持つ権利が保障されているなんて」と手紙を書きました。
一方において最先端を行く技術があり、民主主義のモデルだと言われながら、もう片一方においてやや偏狭な「神か悪魔か」「善か悪か」といったキリスト教的価値観があり、それでいて強烈なViolence(暴力)が存在する。今だってその本質は変っていません。
初めてのカルチャーショック
私はその当時日本の女性としては活発でおしゃべりであると思っていたし、アメリカに行ったらなおさら自分を表現しなければいけないと思い努力して最大限に積極的にやってきたつもりでした。ところが、「あなたは大人しい、何を考えているかわからない、自分の考えがない」とか、教授からも(親切心からですが)「言葉がわからないので無理もないけれど、自分の授業でわからないことがあれば何でも質問しなさい」と言われ驚きました。これには、カルチャーショックを受けましたね。日本では「能ある鷹は爪を隠す」と教わっていたので、わかっていても自分から手を挙げるということはしなかったのですが、自己表現やプレゼンテーション、自分の考えを積極的に発言するということがこちらでは大事なのだということを思い知らされました。
この2年間のアメリカ生活での最大の収穫は、学んだ学問というよりも、物の考え方、発想、意識、自分の生き方みたいなものが根本的に変り、私は私、自分の納得する道を選び責任も自分で負えばいいのだ、ゴーイング マイ ウェイという気持ちになって帰ってきたということです。
その後、1980年、日本の女性で初めての海外駐在特派員としてニューヨークに赴任しましたが、私は若き日のアメリカとの出会いでアメリカの本質をかなり知っていたので、自分で言うのも変なのですが、あれほど数多くの多様な記事が書けたし、記事の掘り下げ方にも奥行きがあると言っていただけたのだと思います。
ニーマン・フェローシップについて
―――1987年ニーマン・フェローとしてハーバード大学で学ばれました
が、ニーマン・フェローというのはどのようなものですか。
特別研究員と訳すのでしょうか、60数年前に、ミルウォーキー・ジャーナルの社主ルシアス・ニーマン氏の未亡人が「アメリカ・ジャーナリズムの質の向上のために」といってハーバード大学に寄付した遺産を基にニーマン・ジャーナリズム財団が創られました。初めはアメリカ人ジャーナリストだけを対象にしていましたが、その後外国人にも門戸が開かれ、ヨーロッパ、アジア、中南米、アフリカからそれぞれ2人ずつ位、アメリカ人も含め全部で20数名が選ばれ、財団の基金でその家族共々1年間ハーバード大学で自由に研究し勉強するという大変贅沢な機会が与えられるのです。しかも、配偶者にも全く同じ権利が与えられ、自由に大学の講義が受けられます。その他にもニーマン・セミナーといって、ニーマン・フェローのために学者、政治家、芸術家等ありとあらゆるジャンルから第一級の人物をゲストスピーカーとして招き自由な討論を行うという特別プログラムもあります。ニーマン・フェローは、アメリカのジャーナリズム界で非常に高いステータスを持っており、これに選ばれることはピューリッツアー賞に次ぐ名誉だと言われています。
そのニーマン財団から私に招聘があったとき、会社ではニーマン・フェローの価値がわからず「朝日には若い人を対象にした語学研修制度はあるけれども中堅社員を対象にした制度はない。あなただけ特別扱いするわけにはいかないから、制度を新たにつくるまで1年待ってほしい」と言われました。
当時、ニーマン・フェローシップは自分からapply(応募)するのではなく、向こうから選ばれてoffer(提供)される制度でした。しかも機会が与えられるのは年1回で、いろいろな国から全体のバランスを考えて選ばれるので、今年行けないから、来年に回すということはできないのです。仕方がないので、私は私費ですぐにハーバード大学に飛び、事情をわかってもらおうとニーマン財団の総責任者(キューレーター)であるハワード・サイモンズ氏に会いに行きました。彼は元ワシントン・ポスト紙の編集局長でウオーターゲート事件でも重要な役割を演じニクソン氏を辞任に追い込んだ一人で、米国ジャーナリズム界では知らぬ人がいないほどの有名な人物です。
ハワード氏は、選考に携わった人なので私のことは良く知っており、彼とジャーナリズムの話をいろいろした後、「ニーマン・フェローには、かつてプログラムの最後に日本の外務省からの招待で1週間位の日本への修学旅行が行われていた。それはそれで悪いアイデアではないけれど、あえて自分はこれを断った。どうしてかわかるか」と言う話がでました。私はすぐに「Government Money(政府の資金)だからでしょ。政府から援助を受けたということは、その国の政府に客観的になれない、あるいは批判を書いたりすることができないという可能性を秘めている。民間企業からの申し出であれば受けたのでしょ」と言うと「その通り。どうして君はそれがわかるんだ?周りのアメリカ人はいくら説明してもわからないのだ」ととても喜び、直ちに「あなたを1年待ちましょう」と言ってくれました。
政府、つまり時の権力とは距離をおいて付き合わなければいけない、そういう人から絶対に物をもらってはいけない、そうしないと情が移って正しいことが書けなくなる。これはジャーナリストとしての原点です。私にはそれがわかっていたから、その姿勢を彼は高く評価し、翌年のハーバード大学でも私をとても可愛がってくれました。
―――1年間で会社は変りましたか。
1年の間に、私が努力し編集局長が根回ししてくれたお陰で会社には正式に研修制度ができ、私は第1号ということで堂々と出発できました。そして、後にこの制度を利用して、海外に研究員として行った人達からは「我々は下村さんのお陰で闘わずしてこの権利を得られた」と喜ばれました。
ジャーナリスト、ハワード・サイモンズ氏との思い出
私がハワード・サイモンズさんのような素晴らしいジャーナリストにめぐり合えたということは本当に運が良かったのだと思います。彼は、徹底的にジャーナリズムのガッツをたたきこんでくれました。
1989年に彼は亡くなりました。私がハーバード大学で過ごした翌年、ニーマン・フェロー50周年を祝うために、世界中の元フェローたちがハーバードのキャンパスに集まるという大イベントが開かれました。その直前、ハワードがガンで余命いくばくもないという知らせを仲間から受けていたので、私はアメリカに直ぐに飛んで行きました。我々と再会した彼は大変衰弱していましたが、責任者として立派にこの行事を執り行い、「自分はこれを最後に引退する。死ぬのなら海の見える暖かいところで死にたい」と明言して、フロリダのジャクソンビルに移って行きました。
それから3週間後、出張で私が再び渡米した際電話すると、彼はやっと出る声で「ミツコ、フロリダまで来ない?天気はいいし泳ぐのに最高だよ。」と・・・。会いたいということだと思ったので、私は直ぐに日帰りでフロリダに飛びました。ちょうどその頃、ホメイニの死と天安門事件があり、彼は弱っているにもかかわらず食い入るようにテレビを見て「アメリカの報道はなっていない!」等と言って喚いているのです。私は「ハワード、あなたは最後までジャーナリストね」と言って笑い出し、互いに3時間近く語り合い、そしてその時もまた「ミツコ、あなたは絶対editor(編集長)をやるべきだ」「そんなこと考えてもいないし、私は一生writer(記者)でいたい」と言うやり取りをしました。
私は彼が疲れてウトウト眠っている間に「あなたとの話は最後まで楽しかった。いずれ私もあちらに行きますので、今日のお話の残りはあちらでしましょう」という長い手紙を残し、彼が浜辺で集めたという貝殻を形見に貰ってそっと帰りました。
東京で彼の訃報を知らされたのは、それから1週間後です。そしてその直後に「朝日ジャーナル」の編集長にという打診があったのです。これまでの私でしたら絶対に引き受けるはずがない話でしたけれど、ハワードの遺言だと思いこれを受けました。1990年のことです。人生にはいろいろなことがありますね。 (2004年12月)
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下村 満子(Shimomura Mitsuko) |
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| 1965年 |
朝日新聞社入社 |
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1965年~1972年「This is Japan」編集部 |
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1972年~1980年「週刊朝日」編集部 |
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1980年~1982年ニューヨーク特派員 |
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1982年 ボーン・上田国際記者賞受賞 |
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1982年~1990年 編集委員 |
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1987年 日本翻訳出版文化賞受賞 |
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1987年~1988年ハーバード大学ニーマン特別研究員 |
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1990年~1992年「朝日ジャーナル」編集長 |
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1992年~1994年編集委員 |
| 1994年 |
朝日新聞社退社後、フリーのジャーナリストとなる。 |
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同時に健康事業総合財団[東京顕微鏡院]、医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」理事長として活躍し現在に至る。 |
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2002年 米国コロンビア大学医学部国際アテナ賞受賞 |
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他に、経済同友会副代表幹事、外務省外務人事審議会委員等役職多数。 |
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1997年~「日航財団」評議員 |
| 著書: |
「アラビアの王様と王妃たち」「財界人トップインタビュー減速社会を生きる」 |
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「世界の大経営者たち」「ソ連人のアメリカ観」「いい男の時代」「成功の条件」 |
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