日航財団 インタビュー7

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外国との遭遇(プラハでの体験)

 インタビュー 作家、日露通訳・翻訳者 米原万理さん

米原さんは、1980年代から日本におけるロシア語通訳の第一人者として、旧ソ連・ロシア関連の報道に貢献され、1990年エリツィン元大統領来日時には随行通訳も務められました。
一方、エッセイストとしても数々の著作があり、子供時代を過ごしたプラハのソビエト学校同級生3人のその後の人生に迫った物語(「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」)で2002年大宅壮一ノンフィクション賞を、初めての本格小説(「オリガ・モリソヴナの反語法」)で2003年Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞されています。
今回はプラハでの体験談と、効果的な外国語習得法についてのお話をお伺いしました。
PartⅠ(外国との遭遇/2005年12月20日発行)、PartⅡ(外国語が上達するための学習法/2006年2月3日発行)の2回に分けて掲載いたしますので、ぜひご一読下さい。


(カルチャーショック)

-小学3年から中学2年(1959年~1964年)まで、プラハで過ごされていらっしゃいますね。 

アートリンク提供©石田健一

 1959年の暮れ、アンカレッジ&ハンブルグ経由でパリまでプロペラ機で22時間かかりました。パリに4泊してプラハ行きの便に乗りました。ハンバーグ発祥の地、ハンブルグで食べたハンバーグも、本場のパリで食べたパンも、プラハで食べたヨーグルトも、日本製のに慣れた子どもの舌には全くの別物で食べにくく、今までのハンバーグ観、パン観、ヨーグルト観が180度ひっくり返るショックでした。街並みにしても建物が大きくて街全体のプロポーションが全然違うんですね。街に溢れる色彩も、匂いも、人々の佇まいも異質……。理屈とか知識ではなくて子どもは五感全体で別世界に入り込んだことを感じとるのですね。だから、そこから滲み出てくる不安感、心細さというのは、今思えば、おのれの存在そのものを揺るがすような根源的なものだったような気がします。それでも、この異質な世界で生きていくためには、そういう違いをすべて受け入れていかなくてはならないわけで、言葉の違い以前に、まずそのショックを克服していくことが先決でした。案ずるより産むが易しで、結局、いつのまにか馴染んでしまうのですけれどね。

-プラハでの学校は・・・。

 最初、チェコの学校に入る予定で、チェコ語を少しずつ勉強し始めました。しかし,「チェコ語を勉強してもこちらに3~4年しかいないので中途半端だし、帰国してからも、日本でチェコ語の辞書や教科書や教師を得るのは殆ど不可能。プラハにはロシア語の学校があるので、こちらにしよう」と両親が考えて、在プラハ・ソビエト学校というソ連外務省直轄の、ソビエトのカリキュラムに基づいて、ソ連から派遣された教師たちが全ての授業をロシア語で行う学校に入学させられました。
そんなわけで、いきなりロシア語の環境に放り込まれたのですが、当然、何もかもちんぷんかんぷん。授業で先生が言うことは皆目見当がつかないし、意地悪されても言い返せないし、訴えることもできない。おしゃべりも遊びもできないし、皆と一緒に笑うこともできない。これは地獄です。逃げ出したいくらい心細くてとても辛い経験でした。9歳でしたが、子供ながらすごいストレスだったのでしょう、肩こりと偏頭痛に悩まされました。あの頃、アンデルセンの「人魚姫」を読んで、自分のことみたいに思えて涙がとまらなくなったものです。

―日本と向こうの学校との違いは・・・。

 プラハのソビエト学校には50数カ国の子供達がいたのですが、友達になるというのは民族とは関係ないですね。個性というか人間性が響きあって好きになったり嫌いになったりする、これは全く日本と変わりありませんでした。
ただ、プラハの学校は多民族の集まりであったことと、もともと人間は違うものであるという考えが彼等の根底にあり、違う人間同士がお互いに共通点を見出せるととてもうれしいけれど、皆違っていて当然なのだと思う、そういう気楽さはありました。

 ところが日本に帰ってきて大きな違いを感じたのは、同化圧力というのでしょうか、皆が同じであることが当然で、幸せである。違っているのは可哀相とか、許せないという考えでした。私は、向こうに行った時、ロシア語ができないので学年を1年遅らせてもらいましたが、帰国した時も同様に母が学校側に1年遅らせてくださいと頼んだのです。ところが、お嬢さんが劣等感をもつと可哀想だからといってとりあってくれませんでした。日本では、皆と同じにしてあげることが幸せだと思っており、とにかく外側だけでも整えてあげたい、勉強が嫌いな子でも皆が高校に行くから自分も行くという感じですよね。子供の時からそうなので、大人になってからも変わらないのでしょう。
皆が同じになることが「平等」と考える日本の学校と、誰もが違っても「対等」と考えるプラハの学校。人間は、不自由な所から自由になるより、自由な所から不自由になったときの方がより意識するのでしょうね。そんなわけで、向こうに行った時より、むしろ日本に帰ってきた時の方が、大きなカルチャーショックを受けました。

(1960年当時のプラハ・ソビエト学校での子供たち)

 1960年当時、第二次世界大戦が終わって15年くらいしかたっていませんでしたから、ロシア、東欧などドイツの被占領地域の国々からの子どもたちが多かった学校では、まだ皆の心のなかにドイツに対する恐怖、憎しみ、嫌悪感が根強く残っていました。街では、ナチスの強制収容所に収容されていた時に入れられた刺青の番号が痛々しく手の甲に残っている人を見かけたし、学校からテレジンの強制収容所跡への見学旅行にも行きました。ナチス・ドイツの占領時代にマリア・テレジア帝の名を冠した城を強制収容所にリフォームしたところです。そこであまりにも残酷な拷問具や収容者たちの悲惨な記録を目の当たりにして、私達はもちろん先生方も、その後数日間、食事がのどを通らなくなってしまう程でした。その位まだ戦争というものが身近で、国境を接していることもあり、ドイツというだけで皆わけもなく鳥肌がたつのです。私もそういう環境にいたので、日本人なのですが、ドイツ、ドイツ人と聞いただけで背筋がザワザワしてくるのです。
プラハに駐在している東ドイツの人達は、そういう住民意識に配慮したのでしょう。小学3年までのドイツ人子弟専用の学校を作り、それ以上年かさの子供達は自国に帰して教育を受けさせていました。ところがある年から、小学3年以上になった東独の子供達が国に帰らずに、10人位まとまってロシア語学校に編入してきました。たちまち、子どもたちの心がザワザワとざわめくのが分かりました。もちろん、子どもであっても、頭の中の理性的な部分では「ドイツ人だからといってこの子達が強制収容所でユダヤ人を虐殺したわけではないし、彼等の両親だってナチスに抵抗したかもしれない。絶対にこの子達には罪はない」とわかってはいるのです。でも心の方は駄目で、決して穏やかではいられなくなるのです。
ドイツ人編入生たちの中にクルツという男の子がいて、私と同じクラスになりました。彼は、子どもながらも敏感に周りの子達の気持ちを感じ取っていて、傍から見ていてもけなげに懸命にふるまっていることが伝わってきました。皆もわかっていたと思います。でも、お互いに何となく心からうちとけることができない状態が続いていました。

(お互いを知るということ)

  ある日、そのクルツと、ペーチャというチェコ人とロシア人の両親をもつ男の子同士がくだらないことから喧嘩を始めたのです。
喧嘩になると理性なんて吹っ飛んでしまうんですね。ペーチャは、絶対に言ってはならない言葉を口にしてしまいました。クルツ少年を、「ファシスト、ナチ」と罵倒してしまったんです。とたんに、あくまでも冷静沈着なクルツが狂ったように怒りだして、凄まじい殴り合いになりました。手の付けようがなくなり、先生方も子どもたちも二人を取り囲んで、さらに大きな騒ぎへと発展しました。
このとき、担任の先生は、「授業をつぶしてもいいので徹底的に口頭で喧嘩しなさい。皆も裁判よろしく傍聴人として発言しても良い」と決断しました。最初は取っ組み合いの延長みたいで、激しい口汚い応酬が続きましたが、やがて、ふたりは比較的冷静に発言するようになっていきます。クラスメートたちに聞かれているという状況が、自分をより客観視する契機となったのでしょぅ。その中で、ペーチャのおばさんは、ユダヤの血が混ざっているためダハウの強制収容所に入れられ、解放される日まで生き延びたけれど、体調をくずしていたためにそのままドイツの病院に入院させられた。その病院でチェコに帰れると知らされたとたんに嬉しさのあまりショック死したということがわかりました。だから、ドイツ人というだけでわけもなく取り乱してしまうのだということも。そしてクルツが皆の前で、「自分は両親が20歳の時の子どもで今10歳だから、戦争が終わったとき、両親は15歳だった。だから、直接ナチスの蛮行には関与していない。でも、自分の両親の両親や親戚や友人知人の中にはナチスに加担した人たちがいただろうし、自分は自分の民族の中から形成されたナチスの働いた数々の残虐行為を許し難いと思っているし、恥ずかしいと感じている。これからも全生涯を通して償っていかなければならないと思っている」ということを、小さい声でとつとつと話したのです。あれは、感動的でした。
それから半年ほど経った頃、体育祭の出し物についてクラスで話し合っているときに、皆が大好きだったレルモントフの『孤帆は白む』という詩に曲を付け、組み体操にしようということになりました。海はブルーのTシャツと半ズボンで、波しぶきは白いソックスで表現しようという取り決めになったときに、クルツが突然立ち上がって、「僕は絶対に白い靴下ははかない」と言い張ったのです。理由は決して明かさず、とにかく、絶対白い靴下ははかないの一点張り。仕方ないので、彼だけブルーの靴下になりました。
ずっとずっと後になって、私が日本に帰ってからの事ですが、ナチス関係の文献を読んでいて、ヒトラーユーゲントの制服が白いソックスだったということがわかりました。その瞬間、プラハ・ソビエト学校の教室で、クルツ少年が「絶対に白い靴下ははかない」と必死に言い張っている姿が浮かんで、涙が止まらなくなりました。あれは彼の意地だったのですね。

 おそらく日本のことも、第二次大戦中に日本にひどい目にあった地域では、代々語り継がれてきているでしょうから、日本、日本人と聞いただけで、そこの人々の心の中にざわざわと波立つものがあるのではないでしょうか。理性では今の日本人に罪はないとわかっていても、払拭するのはなかなか難しいでしょうね。


(現代の世界)

―交通手段が発達して世界は狭くなったと思われますか。

 どうなのでしょうか。「20世紀には、運搬手段も通信手段も飛躍的に進歩したが、運ぶ中身はあまり進歩していない」とは、アフガニスタンなどで20年近く難民救済活動に従事している中村哲医師の至言ですが、実に現状を言い当てている気がします。
日本人について言えば、以前と比べて想像力がとても貧しくなっているような気がします。
例えば、昔、日本の基地を飛び立つ米軍機による壮絶な空爆がベトナムに対して続けられたとき、皆いてもたってもいられなかった。当時、私は高校生、大学生でしたが、いわゆる革新派の学生だけではなくて保守派の学生も、居たたまれない気持ちになった。デモにも出かけたし、政府やアメリカ大使館に抗議も相次いだ。
でも、その後、湾岸戦争で広島の数万倍という劣化ウラン弾の投下が行われた際も、アフガニスタンやイランが滅茶苦茶な理由で空爆されたときも、もちろん、心ある人たちは動いたけれど、社会的広がりにはならなかったでしょう。空爆もテレビゲームを見ているような感覚で・・・。空爆された人たちの恐怖、肉親が目の前で死んでいく悲しみ、悔しさ、痛み。営々と築いてきた生活基盤を破壊された絶望、そういうことに想像力が及びにくくなっている。
全く違う環境・国に生きる人達だとしても、人間としてある程度まで想像力が働くはずなのにどうしてこんなに日本の人々は鈍感になったのでしょう。それだけ先進国になってしまったからなのでしょうか。ベトナムの頃は、日本も発展途上だったから、あるいは戦争体験がまだ生々しく残っていたから、他人事でなく身近に感じられたのでしょうか。

 簡単に外国に行けるようになったこと、そしてテレビが人の心と頭に及ぼす影響は大きいですね。文字だと頭の中で映像をおこす「筋肉」を使うのですが、テレビだとその「筋肉」を使わなくなってしまい、ただ用意された映像を見せられただけで終わってしまう。テレビは、イラクの空爆下、そこで生活している人達がどうなったか殆ど写さなかった。だから、映像を見せられないものは無いも同然になってしまうのかもしれませんね。
もちろんいい番組もありますが、受け身で流されているものをそのまま見ていると、確実に人間として退化していきます。子どもたちを見ていると、その退化のスピードが思いの外、速いのに焦りさえ感じます。

(2005年12月)

-PartⅡ(2006年1月20日発行予定)へ続く


 
   
米原 万里(Yonehara Mari)
エッセイスト、作家> ロシア語通訳・翻訳者

 1959年~1964年 プラハのソビエト学校で学ぶ
 東京外国語大学ロシア語科卒、東京大学大学院露語露文学修士課程終了後、1978年よりロシア語通訳・翻訳を始める。

 1980年 仲間とともにロシア語通訳協会を設立、事務局長に就任
 1992年 テレビにおける同時通訳によってペレストロイカからソ連邦崩壊に至るプロセスについての迅速かつ正確な報道に貢献したとして日本女性放送者懇談会SJ賞受賞
 1995年~ 現在 ロシア語通訳協会会長
 1995年 「不実な美女か貞淑な醜女か」で読売文学賞受賞
 1997年 「魔女の1ダース」で講談社エッセイ賞受賞
 2003年 「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞
 2003年  「オリガ・モリソヴナの反語法」でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞
 著書: 他に「ロシアは今日も荒れ模様」や訳書「わたしの外国語学習法」等多数。
 近著: 2005年12月「必笑小咄のテクニック」(集英 社新書)を刊行


 


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