気球ツアー(Ballooning)
ガイドブックも旅行社も気球ツアーを勧める。しかし1時間160ユーロ(約24,000円)と結構な値段である。カッパドキア・アンカラ約300kmのバス料金片道25リラ(約2,300円)の10倍もする。こんな計算をすると気球に乗る気がそがれてしまう。視点を変えた。今までに気球に乗ったことはない。今後気球に乗る機会はありそうか。それもなさそうだ。そうすると気球に乗ることはこの機会をはずすとなさそうだ。カッパドキアの気球ツアーは人生に一度の機会なのだ。その機会を逸してよいのかな。実に悩ましい。費用対効果は未知数なのである。大袈裟に言うとこんな葛藤があった。有り体に言えば、貧乏旅行、この先もあるし、「どうしようかな」と一寸迷ったのである。結論は至極大雑把で、「まぁいいじゃないの、生き死にの問題でもあるまいし、折角ここまで来たんだから気球に乗ってみよう。料金も特別に120ユーロに割引すると言っているし」といった次第で手配をお願いした。
起床4時。迎えのミニバンに乗ってギョレメの台地が途切れたあたりの平地に向かった。丘やら谷やらとアップダウンばかりのギョレメの近くにこんな平坦な場所があるのが不思議なくらいだ。出発点に着くと東の空が茜に染まり始めた。しかし寒い。気球は寒いと聞いていたが、乗る前がもっと寒い。7月だというのにセーターにジャンバーを着込んでいる。横長の折りたたみテーブルの上に、暖かいコーヒーとビスケットが用意されていて、ミニバンから降りた気球乗客は紙コップに温かいコーヒーを注ぎ、湯たんぽを抱くようにコップを抱えて手を温め、コーヒーを口に流し込み体を温める。気球は一つとして揚がっていない。ぺタッと地べたにへばり付いて巨大深海烏賊のスルメようだ。へばり付いたスルメの中に暖めた空気の吹き込みが始まった。気球だから風船が空に舞い上がるように地上を浮遊するのだが、「Hot Air Balloon」とあるから、ヘリウムや水素ガスを吹き込むのでなく、暖めた空気で空に浮く。カッパドキアは昼夜の寒暖の差が激しい。夜に冷えた空気が谷に集まり、日の出とともに谷から冷えた空気が川のように流れ出る。これが気球の浮遊を安定させるそうで、それで気球ライドが早朝催行されている。
気球①
気球②
気球③
一時間近く待っただろうか。へばり付いたスルメが垂直に浮き丸みを増す。空気の注入は続いている。遠くに気球が一つ二つと浮遊し始めた。我が気球もほぼ準備完了である。バルーンの下に籐のバスケットが取り付けられていてこのバスケットに15人の乗客を収容する。胸元辺りまであるバスケットの縁をまたいで、お尻を押し上げられて乗船である(乗船でよいのかな。船は乗船、飛行機は搭乗、気球は乗球かな。船は船長、飛行機は機長、気球は球長かな)。気球は舫いを解かれて、船が出帆するが如くに緩やかに空に浮いた。あなた任せの浮遊の始まりである。水溜りを浮き沈みするボウフラのような頼りなさを感じないでもない。
奇岩群①
ひさしに金色のモールの飾りの付いた黒の野球帽を被り、カーキの厚手のジャンパーを着込んだ船長は退役軍人風で、落ち着いていて頼りになりそうな人だ。顔、身体つきはニッサンのカルロス・ゴーン前社長に似ている。「皆さん、気球ライドにようこそ。空からのカッパドキアを堪能してください」と挨拶して、船長の脇の器具計器を操作しバーナーを発火して暖めた空気をバルーンに念を押すように送り込んだ。気球は北東に向かって高度を上げ進む。同じ方向に向かって10個以上の色とりどりの気球が浮遊する。高度を上げ朝日を受けて輝く気球、低高度で谷の陰に沈むように進む気球。時折バーナーが火を噴く音のほか音のない寂とした透き通った空を、気球は丘のてっぺんや茸のような円錐状の奇岩の突先を、バスケットをかすめるように越えて流れてゆく。船長は時折、「ここはローズヴァレーです」、「遠くの町はアヴァノスです」と説明するが、そんな説明は要らない。
奇岩群②
船上から眺める奇岩群は広い視野の中にあって、透き通るような冷涼な空気の中に朝日を受けて褐色に輝いている。乗客は静かな心の高まりのうちに、気球と一つになって空を無心にゆっくりと流れてゆく。気球は峡谷を一つまた一つと越えて流れて進むうちに、眺望は見通しの良いなだらかなものに変わった。船長はそろそろ着陸場所を物色し始めているに違いない。
気球はエンジンを持たないから行く先は基本的には風任せだが、高度はバルーンの空気の温度を熱したり冷やしたりして調整が可能である。この気球ツアーでは、地上1,300mまで上昇した。しかし何処に着陸できるかは風任せ、船長は上から飛行する方向に着陸に十分な平坦な場所を見つけ、地上スタッフに着陸場所を告げる。(正直言って、エンジンを持たない風任せで、着陸地点も定かでない気球に15人もの乗客を乗せて飛行する船長はかなりタフな神経を持ち合わせていないと務まらないのではないか。私には到底まねが出来るようなことではない)。地上スタッフ(着陸台を牽引するトラックと乗客用ミニバン)は気球が離陸すると、船長と連絡を取りあるいは空を見上げ、気球の飛行方向を見定めて、道路を走って気球を追いかけ着陸地点に向かう。気球の速度は自転車程度だとしても、地上から気球を追いかけることはなかなか気の折れる仕事に違いない。着陸地点が決まると、船長は乗客に着陸のショックを和らげる姿勢を告げた。飛行機の緊急着陸時の姿勢のように、足をバスケットの側面に踏ん張って体を丸く屈める。バスケットが地上に触れた瞬間横転しないかと若干不安ではあったが、気球は地上スタッフの引いてきた着陸台の上にぴったりと着陸した。”Right on the Money!!!”(ぴったんこ)の歓声と拍手に船長はにっこり。カルロス・ゴーン氏はなかなかの凄腕パイロットであった。シャンパンを抜き乗客とスタッフで乾杯、そして船長から一人一人が気球飛行証明を頂戴して解散と相成った。朝にも寒さにも弱い私にそれにも負けない三文の徳、お陰で朝食も美味かった。
気球浮く谷間の朝の涼気かな
(続)
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