オスマントルコ

 大帝国を打ちたてたオスマントルコはどのような人々だったのだろう。1200年もの長きに亘るビザンティン帝国を倒し、最盛期には東はイラン、アゼルバイジャン、西はアルジェリア、南はイェメン、ソマリア、北はハンガリー、ウクライナまでを領有し、末期には「瀕死の病人」とまで言われたが、中近東の覇者として600年も続いたオスマン帝国とはどんな国だったのだろうか。スルタンアフメット・ジャミー、トプカプ宮殿そして未だにイスタンブールに色濃いオスマンの影を感ずる時、そういったロマンティックな好奇心に駆られる。

 オスマン帝国を建国したのはトルコ系の人々で、古代からトルコに土着していた人々ではなかった。アナトリア半島には、有史以前からセム系(ユダヤ、アラブなど)、アーリア系(例えば、ヒッタイト、フリィギア、リディア、ギリシャなど)の様々な民族が定住し、文明を育んできた。トルコ族は遥か東方の遊牧の民であり、中国の史書には「突厥(トッケツ)」と記されている。「トルコ」、「トッケツ」と呟いてみると、成程と頷ける。「突厥」はモンゴル系の支配者に従属していたが、6世紀頃これを打ち破り独立を果たした。トルコ共和国は、この「突厥」の独立をトルコ建国と考えている。場所はアルタイ山脈辺りとあるから、モンゴル、中国新疆ウィーグル自治区、カザフスタン、バイカル湖まで広範な地域が遊牧の民トルコの活動域であったに違いない。 この辺りからアナトリア半島までの中央アジアステップは、現在も、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、アゼルバイジャンなどのトルコ系の国々が大トルコ圏を形成している。トルコ族の一部はその後西進した。セルジューク支族がアナトリアに進入し、先住民族と対立・混交しながら次第に定住し、ルーム・セルジューク王朝を建国した。その後もトルコ系部族のアナトリアへの侵入は続いた。トルコ民族はイスラム教徒であり、彼等の西進につれてアナトリアのイスラム化も浸透していった。

 13世紀末、トルコ人の遊牧部族長オスマン一世の率いる強力な軍事集団がアナトリア西北部に現れ、周辺のキリスト教やイスラム教の小国と戦いながらあるいは同盟を結びつつ、東部アナトリアにオスマン君候国を打ち立て、都をブルサ(コンスタンティノープルから100kmに満たない至近距離)に置いた。オスマン一世のアナトリア進入は、チンギス・カーンの大帝国建設の大遠征の最中のことであり、モンゴルの西征とも関連していたであろう。オスマントルコはダーダネルス海峡を越え、バルカン半島トラキアを制圧し、領土を大きくバルカン半島に拡大していった。15世紀始め、ティムールとの戦いにアンカラで大敗北はきっしたものの、失地を短期間に回復し国力を充実させ領土は更に拡大した。既にコンスタンティノープル周辺はオスマンの領地であったから、コンスタンティノープルはオスマントルコに実質的に包囲されていた。メフメット二世は、機は熟したとばかりにコンスタンティノープルを包囲し猛攻するが、二重三重に城壁を回らし、金角湾入口を海上封鎖するビザンティンの守りは堅い。コンスタンティノープルは難攻不落である。メフメット二世は、常套攻撃は通じずと見て奇策を講じた。軍艦をボスポラス海峡から現在の新市街の丘を越え金角湾内部に運び込み、コンスタンティノーブルの柔らかい腹部をえぐる作戦である。80艘に近い軍艦を牛や兵士に引かせ丘を越える。しかも秘密裏に運ばなければならない。正に至難の作戦であった。それが奏功した。ビザンティンが予想だにしなかった奇襲であった。ここにビザンティン帝国は滅亡した。コンスタンティノーブル陥落の裏には、交易の利権を守ろうとするベネチア、ジェノアの暗躍もあったらしい。つまり、ベネチアとジェノアはビザンティン帝国との間に大きな交易の利権を保持していたが、オスマントルコの攻撃にビザンティン帝国は抗しえず滅亡すると判断して、既得の交易利権を引き続き保持するためにオスマントルコに内通し、コンスタンティノープルの軍事等の情報を流したと言われている。コンスタンティノーブルはイスタンブール(City of Islam)と名をかえオスマン帝国の首都となった。1453年のことである。日本ではまさに戦国時代が始まらんとする頃であった。そして西欧では膨張の時代が始まらんとしていた。大航海時代の幕開けである。コンスタンティノープルの陥落から40年後コロンブスはアメリカを発見し、ヴァスコ・ダ・ガマは1497年アフリカ喜望峰を廻ってインドに至る航海路を発見している。東西交易の中継地として要であったオスマン帝国が後に凋落していった遠因は、帝国の創成期に海の彼方に兆していたと言えないでもない。

 遊牧民には必要なものは何でも利用し、不必要なものは捨てるという合理性があるといわれている。牧草地を求めて迅速に移動する遊牧生活にはそのような合理性は不可欠である。また、身を守るために強いリーダーの下に糾合する、そしてリーダーが不能であれば離反する。オスマントルコにも、このような遊牧民の特徴が反映されている。創成期のオスマンには機動性の高い強力な軍事力があった。それは多民族で構成されていた。例えば、スルタン親衛隊(ジャニサリー)はオスマン最強と言われていたが、バルカンのキリスト教徒の子供を訓練して親衛隊として育て上げたものである。軍隊のみならず、国自体が多民族国家であった。中核たるトルコ人、そして、ギリシャ人、アルメニア人などの先住民族、新たな領土の諸民族(アラブ、アルバニア、ブルガリア、セルビア、コーカサスなどの諸民族)、スペインを追放されたユダヤ人、そしてジェノア・ベネチア人など人種の坩堝である。スルタンはこれらの人々を適材適所に活用していた。また、宗教にも寛容であった。トルコ族はイスラムであるが、ギリシャ、アルメニア人はキリスト教徒、ユダヤ人は勿論ユダヤ教徒である。バルカンの諸民族はキリスト教徒であったが、多くの人々がイスラムに改宗した(バルカン半島の今日の紛争は民族主義とキリスト教・イスラム教の相克にも起因する)。日常生活面では、民族毎あるいは宗教ごとにある程度の自主管理が許されていた。ギリシャ人、ユダヤ人は商業、金融。アルメニア人は職人などと棲み分けはあったらしいが、それも強制されていたわけではなく、いわば世襲であったに違いない。言葉はオスマントルコ語であるが、各民族の言語も禁止されてはいない。トルコ語自体ペルシャ語、アラブ語、ギリシャ語から多くの言葉を取り込んでいる(19世紀以降これにフランス語、英語も取り込まれている)。問題がないわけではないが、宗教面でも日常生活の面でも比較的自由な環境の中で、多民族が夫々の伝統や宗教を守りつつ隣り合わせに棲むことができた社会であった。トルコ人自身も混血を重ね、また、多民族の文化、習慣などから影響を受け、中央アジアで遊牧をしていたトルコ族とは別な民族と言っていいほどの変革を遂げたに違いない。20世紀始め、アタチュルクがトルコ共和国を建国したが、建国思想の一つの柱をトルコ主義とした。トルコ人の国という色彩を鮮明に打ち出したのである。外圧を撥ね退けるためにトルコの旗の下に国を一つにしなければならなかった。しかし、オスマン帝国下では、トルコ人の国という民族意識は希薄であったに違いない。(続)




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