日本政府はビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)の下、”外国人旅行者訪日促進運動”を行っています。数値目標として2010年までに1,000万人の訪日外国人を得ることです。日航財団は日本政府が重点市場として指定した地域12カ国の内、7カ国から毎年夏に大学生をJALスカラシップとして受け入れる一方、3カ国から大学生の財団での企業研修を1年単位で受け入れております。又、政府の観光促進運動に呼応しつつ、ツーリズム研究の一環として、これら研修生の目を通して「日本の観光資源」を調査、紹介しています。


今回は、3日間の日程で、松山、しまなみ街道、広島・宮島をまわりました。
旅程には、城、温泉、瀬戸内海、世界遺産といった大きなテーマが盛り込まれており、財団研修生、韓国の朴さん、中国の張さん、オーストラリアのトリンさんは、事前にこれらのテーマを学習した上で、旅にのぞみました。

瀬戸内海は、別府航路はなやかりしころ、日本のエーゲ海として、インバウンド観光で脚光を浴びた時代がありました。本州と四国との間に3箇所の横断道が開通した今、瀬戸内海を楽しむ方法は実に多彩です。しまなみ街道は、自転車でも、徒歩でも踏破が可能です。そして、瀬戸内海周辺に点在する多数の観光ポイント。今回は、松山・広島・宮島にスポットをあてましたが、別府、下関、岩国、鞆の浦、倉敷、岡山、姫路、小豆島、高松、琴平、淡路島、鳴門、等々、枚挙にいとまがありません。エーゲ海にまさるとも劣らぬ新たなゴールデンルートの誕生が期待されます。

研修生の眼に写った「瀬戸内の風景」をお楽しみ下さい。
別府航路:1960年代、阪神・別府間に昼間便の客船が就航し、多くの観光客を集めた。


■ 実施日 2009年3月2日~4日
■ ルート 松山  - 今治 - 大三島 - 尾道 - 広島 - 宮島
■ 財団研修生    
Miss SunHee Park(朴 宣姫) 梨花女子大学 『心に残る旅』
Miss.Shuo Zhang(張 碩) 北京外国語大学 『松山、瀬戸内海、広島・宮島の旅』
Miss.Teresa T.Q.Trinh 西シドニー大学 『松山、しまなみ街道、広島・宮島、三日間の旅』


心に残る旅

朴 宣姫

 晴れた日に旅に出る事は何よりも恵まれた事。もしも雨が降ったらどうしようと心配だったが、松山に行く日は運良く久しぶりに晴れた日だった。松山空港に降りると青空と新鮮な空気が私たちを待っていた。まだ冬の寒さが感じられたが、あまりにもいい日差しで気持ちまで暖かくなってきた。
松山空港から今回私たちが泊まった松山市内にある東急インまではリムジンバスに乗って移動した。驚く事にバスの中では日本語、英語、韓国語、中国語の四つの言語で案内が流れてきた。さらに、その案内の中には松山の名物、お土産の紹介もあった。最初はバスの中でお土産の宣伝なんておかしいなと思ったが、だんだん聞いている内に私は帰りに買うお土産をもう決めていた。個人的にこれは外国人の観光客にとっても役に立つ情報だと思う。

 にぎやかな東京の風景と違って松山はなんとなく平和に見えた。松山市内からでも山が見えたり、昔の電車が走っていたり、まさに小さな映画のセットみたいな気がした。その中でも一番私の目を引いたのは道の上にある線路を走る小さい電車だった。ドラマや映画などでは何回か見たことがあるが、今まで実際に見たことは無かったので私にとっては面白い事だった。’可愛い’これが私にとって松山の初印象である。また、市内に松山城やいくつかの公園があって緑いっぱいの所だなとわかった。


 JAL松山支店で働いている日野さんと一緒に昼食をとった。日野さんはわざわざ私たちのために松山の情報が書いてある色々な資料を持って来てくださった。そして昼食に行ったレストランは日野さんおすすめの所で、松山名物の食べ物を出してくれるおしゃれな場所だった。私には松山で有名な鯛のお茶づけが出たが、食べ方がとても珍しくて、料理もすごく美味しかった。

 昼食の後には松山城に行った。日本にはいくつかの城が残っているがそのほとんどが再建されたものだ。しかし松山城は昔のまま保存されている。松山城に登ると、松山市内が一望できた。

 いよいよ私が大期待している場所に移動!そこはなんと日本で一番古い温泉。日本の感動的なアニメーションである「千と千尋の神隠し」の舞台になった道後温泉。温泉が大好きな私にこれより光栄なことはないだろう。温泉の国日本で一番古い温泉に行くなんて考えた事もなかったので、私は来る前から楽しみにしていた。道後温泉本館の姿はすばらしかった。映画で見たときもとても美しい建物だとは思ったが、実際に見るとさらにその美しさを感じる事ができた。中に入ると皇族が使っていた特別の温泉施設の見学もできた。温泉は近頃の温泉と比べると小さくて、特に違う感はなかったが、‘一番古い温泉’ということ一つだけでもう十分満足だった。

 二日目は残念ながら朝から雨だった。しまなみ街道を自転車で渡る予定だったが、結局バスで行く事になった。その時はひどい雨であまりにも寒くて早く今日の目的地である広島に着きたかったが、今考えると雨のしまなみ街道もいい思い出になった。少しロマンチックだったかしら。雨の中、乗り換えのバスを待ちながら皆でみかんを食べたり、体を温めるためにうどんを食べたり、記憶に残すために傘と共に写真を撮ったり…きれいなしまなみ街道は見られなかったが、雨と雲の中でぼんやりしている風景もそれなりに良かった。



 そして着いたところが耕三寺。大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を営んでいた技術者で実業家の耕三寺耕三が、母親の死後、母への報恩感謝の意を込めて自ら僧籍に入り菩提寺として昭和10年より生涯を掛けて建立したお寺である。ともに世の中のすべてのお母様にありがとうと心から手を合わせる「母の寺」として親しまれている。耕三寺は他のお寺とは違う雰囲気を出していた。華やかな色で、世界のさまざまなお寺のいい所だけを集めたお寺のようだった。もしかして耕三はお母さんのためにいい物だけを置いておきたかったのではないかなと一瞬思った。ここで一つ面白い場所を発見!それは地獄のトンネル。そのトンネルは深く、長くて、中には地獄に関する絵や鬼の模型が置いてあった。また数えきれないほど多い仏像や池のような所もあった。なぜ、そしてどうやってこんなに長いトンネルが作られたのか、そしてどうやってこれだけの仏像を運んだのか不思議に思う。もしかして親を大切にしていた耕三はこの地獄のトンネルを通じて多くの人々に親を大切にしないと地獄に落ちるという事を伝えたかったのではないか。彼の思いを十分感じられるお寺だった。

 耕三寺から船で1時間ほど行って尾道に到着。ここからまた電車で1時間でやっと広島に着いた。もう暗くなっていた。私たちは広島の名物お好み焼きをお腹いっぱい食べて、明日は晴れる事を祈りながら、早めに疲れた体を宿に運んだ 。

 広島といえば私は教科書で見た原爆ドームが一番に頭に浮かぶ。広島平和記念公園に着くとその原爆ドームが見えてきた。歪んだ鉄骨や形態を見分ける事さえ難しくなった戦争の残害物は当時の苦しさや悲しみをそのまま含んでいた。第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカは日本の広島市へ原子爆弾を投下した。これは実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃であり、都市を対象とした爆撃では史上最大級の規模であった。この爆弾一発により市街地は潰滅し、一般市民十数万人が死亡した。朝早くからたずねた広島平和記念資料館は涙なしでは見られない内容がたくさん展示されてあった。原爆の被害はすぐ現れる事もあったが、何十年も経ってから現れる事も多いので実際に被害を受けた人は数え切れないほど多い。今回、私は戦争の悲しみや苦しさを肌で感じる事ができた。

 最後に私たちが訪ねた所は宮島。海に浮かんでいるように見える厳島神社はあまりにも不思議に見えていつも行きたかった所だった。その謎の真実は潮が満ちると社殿や廻廊はあたかも海に浮かんでいるように見える事である。このように 潮の干満で姿を変える海面を敷地とする奇想天外な発想はなかなか珍しい事ではないかなと思う。もう一つ驚いたのは、この神社はとてもきれいだった事。後でわかったが、この海辺の聖地の美しい景観を守るため、神社では藻の清掃作業や砂州の地ならしなど日々細やかな手入れが行われているそうだ。さすが世界遺産に値する。



 旅行する時の時間はいつも早く過ぎる気がする。今回の三日間の旅も相変わらずあっという間に過ぎてしまった。でも旅は短い時間でもたくさんの新しい事を教えてくれる。


以上

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松山、瀬戸内海、広島・宮島の旅

張 碩

一日目

 松山空港についてから、空港リムジンバスで松山市内に行った。バスの中には、当地の名物や有名スポットのガイドブックがたくさんあるだけでなく、外国語のアナウンスもあって、東京よりもインターナショナルな感じがした。

 昼ご飯は日航松山支店の日野さんと一緒に松山の名物を食べた。「桃李花」という店の名前を見て、一瞬中華料理かと思った。入ってみたら、畳の上にテーブルと洋風の椅子が並んでいて、和洋の組合せで不思議で快適な雰囲気が作られている。私が食べたのは雑煮セットで、雑煮だけでなく、刺身もチャーハンも小鉢もとても美味しかった。最後のデザートは洋風セットと和風セットがあったが、せっかくだからわたしは和風の羊羹と抹茶の組合せにした。抹茶の器は「わび」の感じと「かわいい」感じが両方あって、とてもきれいで、中に入っているお茶が更に美味しく感じられた。

 午後、松山城に行った。松山城は132メートルの山頂に聳え立っていて、町のほとんどの所からみえる立派なお城だ。松山城は、日本で12か所しか残っていない、江戸時代以前に建造されたお城の一つとのこと。路面電車で山の下まで行って、ケーブルカーに乗って山に登った。さすが松山城は、近くで見ると、更に凛々しく感じられた。黒と白は、侍の冷静さと強靭さを感じさせられる。これこそが、私が日本のお城を好きな理由だ。

 天守閣で、よろいを体験できるところがある。興味を持っていたので着てみた。一枚に見えるよろいが、意外と十何枚もあった。時間の節約のために、私は大きい部分だけをつけた。それでも想像よりかなり重かった。昔の人は、こんなに重いよろいを着て、長い槍を持って、そして走って戦わなければならなかっただろう。どんなに大変だったかは想像できる。もともと戦争をしないほうがいいのにね。

 天守閣から眺めた景色は素晴らしい。まち全体だけでなく瀬戸内海まで見える。こんなに素晴らしい自分の領土を見たら、誰が大名であっても命をかけてこの土地を守るだろう。

 山を降りるときはケーブルカーも利用できるが、リフトで降りた。リフトは一つの椅子だけで怖そうに見えるが、その刺激と周りの自然に触れたくて乗ってみた。やはり密閉空間のケーブルカーとは楽しさが違った。

 ホテルに戻って少し休んでから、「千と千尋の神隠し」のモデルになった道後温泉本館に行った。


 松山市は夏目漱石の小説「坊ちゃん」の舞台で、今、市内には、坊ちゃん列車と言う路面電車が走っている。坊ちゃん列車は観光列車として、電気で動いているが、昔の蒸気機関車の形をしている。一時間に二便しかないので、乗れなかったのは残念。坊ちゃん列車の終点が道後温泉だ。

 長い商店街を通り抜けて、道後温泉本館についた。道後温泉は日本最古の温泉で、道後温泉本館も百年以上の歴史を誇る。本館に天皇家も何回も訪れたという。三階建ての木造の家屋は、歴史を物語っている。中には、天皇家専用のお風呂と、誰でも利用できるお風呂がある。ガイドさんの説明が終わった後、私たちはまず二階にある小さいお風呂に。次に一階にある大きいお風呂に入って、最後に三階にある畳の部屋で坊ちゃん団子を食べた。いずれも楽しかった。とても人気がある温泉なので、部屋の時間制限が80分だったが、もっとここにいたかった。

 夜、松山名物のじゃこてんを食べた。美味しかった。

二日目

 朝松山を離れて、しまなみ街道(今治からたくさんの島を通って尾道に行く道路)に入った。雨が降っていたので、自転車で海を渡ることができなかった。残念。バスの窓から瀬戸内海の島々とそれを結ぶいくつかの立派な橋を眺めていて、これがアニメで見てあこがれていた瀬戸内海だと思った。

 昼は島の名物のうどんを食べた。雨の日に温かいうどんを食べるのは最高だ。さすがに四国のうどんは美味しい。

 午後、耕三寺に行った。ここは、耕三というお金持ちのお坊さんが母親のために立てたのだそうだ。母親を喜ばせるために全国の有名な寺院の建物を真似してここに建てたのだ。私たちは展示されている絵や器を見終わってから、千佛洞という洞窟に入った。中に千体の仏像が祭られているほか、地獄のシーンを表した絵や仏教の絵、高い所から落ちてきた細い滝や小さい池などがあった。とても長くて、ちょっと怖い感じがする洞窟だった。

 暗い洞窟から出ると、観世音菩薩の立派な立像が見えた。「世の母は みな観世音 花の春」と書いてある石碑が寺の門の前と中に二箇所もあることから、耕三さんの母親への強い気持ちが分かる。

 最後に、母親のために建てた家を見学した。とても広々とした家で、内装も豪華の極みで、窓から眺める庭もとてもきれい。お母さんはきっと喜んだだろう。耕三さんほど親孝行をした人はいないだろう。

 夜、広島市について、忘れられないほどおいしかったお好み焼きを食べた。お好み焼きのために、また広島に行きたいとさえ思ってしまった。

三日目

 広島の世界遺産を見学した。平和記念公園は、1945年8月6日の原子爆弾直下の地区を世界恒久平和の象徴として整備された公園。中には、原爆ドーム、広島平和記念資料館を始め、供養塔、平和の鐘、原爆の子の像、原爆死没者慰霊碑、平和の門などが点在。

 私は長崎の原爆記念館に行ったことがあるが、原爆ドームのような衝撃的な建物はなかった。原爆ドームは当時の広島県産業奨励館で、この南東約160メートルの地点の上空約600メートルで原爆が炸裂し、館内にいた全員が即死した。しかし、爆風が上方からほとんど垂直に当たったため、建物の壁の一部は倒壊を免れた。最上部に残った鉄骨により、円蓋を持つ建物であったことが分かる程度の残骸となった。原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、世界遺産に登録された。この残骸を見て、当時の情景を想像してみた。一瞬ですべてが無くなることはどんなことか想像もできないひどいことだと思った。ゲームとかで見た飛行機から爆弾を投げて地面が燃え始めるシーンは少しも怖くないが、これを見ると、建物が倒れる、人が死ぬ、という痛みを伴う感じが湧き出した。怖いと言うより、絶望的ではないだろうか。

 その後、平和記念資料館を見学した。広島市の元の様子の模型と被爆したあとの様子の模型がある。もともと清らかな川とたくさんの緑の木々に囲まれて、多くのビルが聳えて、民家が並ぶ、生き生きとした大都市だった。その日、市内全体が灰色の焼け跡になって、地面に立つものはわずか数本の煙突だけで、川にかかった橋さえ一本も残っていない、死んだ都市となってしまった。これで当時の惨状が一目瞭然に分かる。また、原子爆弾の破壊力についての説明や、当時の廃墟から掘り出したもの、被害者の写真などが展示されている。例えば、原爆による高温で融けてへこんだガラス瓶、原爆による強風で飛び出した窓ガラスの破片で破れた血まみれの洋服、原爆による放射能で病気にかかった人の写真などなど。模型、データ、実物、写真、様々な方面から原爆の怖さがよく分かった。戦争は必ず人を苦しめるものだ。戦争で侵略した側にとっても、侵略された側にとっても同じだ。政府の考えで民衆を苦しめる戦争はなくしてほしい。

 資料館から出て、船で宮島に向かった。さっきまでの重い気持ちは海に解けたかのようで、海は心を浄化する力をもっていると思った。宮島に上がると、たくさんの鹿にあった。人懐こくて、近くに行っても怖がらない鹿なので、とても可愛かった。鹿の大好物は鹿煎餅。鹿煎餅をあげる時、鹿の頭の上の高いところに挙げて鹿をからかう外国人もいたし、手の中の鹿煎餅を狙われて鹿に追われて走りまわる子供もいた。鹿が人間と仲良く共存できる光景は美しいと思った。

 いよいよ憧れていた厳島神社の鳥居が見えた。私は海と鳥居の両方とも大好きなので、厳島神社はまさに夢の存在だ。青々とした海の上に真っ赤な鳥居が浮かんでいるようで、行こうしても近づけない神秘的な所だと思った。地面に立つ鳥居はありふれたものだが、海上に立つのはこれしかない。ここに来られて幸せだと思った。景色はもちろん絶景だ。美しさを言葉にできないのはくやしいが、やはり自分の眼で見たほうがその美しさが味わえると思う。

 宮島で名物のかき丼を食べてから、船に乗って島を離れた。私は船から何度も何度も鳥居を眺めて、見えなくなるまで写真を撮っていた。船がどうしてこんなに速いのだろうと思った。離れがたい思いを抱きながら、飛行機に乗って東京に戻った。


 三日間のフィールドトリップはとても楽しかった。見る旅でもあるし、食べる旅でもあって、充実した旅だった。日本の典型的なお城や温泉やお寺や神社を見て、伝統を保って自然を大切にする日本がもっと好きになった。


以上

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松山、しまなみ街道、広島・宮島、三日間の旅

トリン・テレサ

―松山―

 研修生と財団スタッフが羽田空港チェックインカウンターに集合。旅が始まった。 チェックインを終え、飛行機に搭乗。最初の目的地松山までの飛行時間は1時間30分。 この時間は、楽しい3日間の旅の前の一休みとなった。

 松山空港に到着後、宿泊先の東急インに向かう。 バスでは、地域の特産品や、有名な観光地の紹介など、いろいろ案内があった。案内は、日本語だけでなく、英語、韓国語、中国語でおこなわれ、大変、興味深かった。松山が訪問客を満足させ、観光産業を発展させようとしていることがよくわかった。

 ホテル到着後、JAL松山支店の日野さんとお昼をともにした。ホテルから昼食場所まで、日野さんが案内してくれたが、そこまでの街路がとても美しく、晴れた暖かな日でもあり歩くのがとてもここちよかった。

 松山の街路を歩いていると、この街が東京と明らかに違うことがわかる。 松山のメインストリートは賑やかであるが、古い路面電車がいまも走っており、静かな横道には、松山の特産品を売っている古風で趣のあるお店が多く、時代を超えた雰囲気が感じられた。


 昼食で訪れた「桃李花」は、静かな小道に面していた。 レストランにはいって驚いた。たたみとふすまの部屋にモダンなデザインの椅子がおかれていたからだ。まさに、和と洋の融合の素晴らしい世界がひろがっていた。 食事の前に日野さんより、松山市の見所や特産品、また特におすすめの品の説明を受ける。

 食事が運ばれてきた。お店の方の控えめで好ましいもてなしが、とても印象的だった。食べ方や、薬味はどれをつけたら良いかをていねいに教えてくれた。 予想にたがわず、食事は新鮮で、とてもおいしかった。 食事の後、日野さんにお礼を言い、お別れした。


 その後、私たちは日本に現存する12の古城の一つ松山城に向かった。お城は山上にあり、ケーブルカーを利用。ケーブルカーをおりたら、松山城の探検の始まりだった。

 松山城には最初から強烈な印象を受けた。聳え立つ櫓から、敵の進入を防ぐ壮大な門まで、昔のままとてもよく保存されていた。

 松山城からの周りの景色も素晴らしかった。天守閣からは東西南北が見渡せ、それぞれの景色がとてもユニークで美しかった。

 広場には多くの桜の木が植えられていたが、まだ咲いていなかった。春は、本当に素敵でしょうね。

 次の目的地、道後温泉には、路面電車と徒歩で、あっという間に到着。 日本で一番古い温泉、道後温泉。 天皇家も利用された道後温泉本館に入り、いろいろ説明を受けた後、浴衣を受け取りお風呂にはいった。 女性用の浴室は大小二つあったが、大きな浴室の方がお湯が熱かった。入るときは、初めての経験でとまどったが、温泉の暖かな湯にひたっているととてもリラックスでき、幸せな気分になった。休憩室に戻り、お茶を飲みながら、名物の「ぼっちゃんだんご」を食べ、道後温泉を後にした。

―しまなみ街道―

 残念ながら、翌日は、とても寒く、またほとんど雨であった。それでも、景色の美しさが損なわれることはなかった。むしろ、霧や雨、そして時々まじる雪が、ものがなしい情景を演出してくれた。私は、このような風景が好きで、かえって幸せな気持ちになった。

 今治から瀬戸田までの旅は、瀬戸内海に浮かぶ島と島をつなぐ橋をみることができ、おもしろかった。

 大三島ではバスをおり、瀬戸田までタクシーを利用。運転手さんから、大三島の様子や、瀬戸田の歴史などを聞くことができ、とても有意義だった。しかし、橋ができてからは、観光客が減ってしまい、多くのお店が閉店したと語ってくれた時はさみしそうだった。

 瀬戸田の町は古風で静かで、故郷に帰ったようなほっとした気分になった。雨の日でもあり、人通りも少なく、あいているお店は少なかった。昔はもっと賑やかだったのかなとおもうと少し悲しくなった。


 瀬戸田では、耕三という名の僧侶が母に捧げるために、30年代の中ごろから長い歳月をかけて造った耕三寺を訪れた。

 建築物は、控えめな色合いの建物と明るく華麗な建物がミックスされており、カラフル建物は、雨の中でも映え、また他の見所も多かった。

 寺には二つの博物館があり、陶器と絵画が展示されていた。しかし、雨と寒さのため駆け足の見学となった。

 1000の仏像がある洞窟は素晴らしかった。洞窟には様々の種類の仏像が置かれていた。仏像は洞窟の道にそっても、滝のそばにもあった。また、天井まで達するように仏像が配置されている場所もあり、照明が効果的にあてられ、仏像が浮かびあがっていた。また、洞窟の道にそった壁には、様々の地獄や責め苦のイメージ画が描かれていて、不気味であった。洞窟をでると10メートルの高さの観音像が私達の前に聳え立っていた。

 最後に、耕三が母のために立てた家を訪れた。家は、畳やふすまの伝統的日本家屋であるが、浴室にはモザイクがちりばめられていたり、色のついたガラス窓、華麗に垂れ下がったシャンデリア等、洋風スタイルもとりいれられており、とても魅力的だった。豪華な品々からは、耕三の母への献身と深い愛情が感じられた。

 耕三寺の見学を終えて、フェリーで瀬戸田を後にし、尾道に。尾道からは汽車にゆられて広島へ向かった。

―広島・宮島―

 広島につき、ホテルJAL City 広島に、チェックインした後、広島の名物、「お好み焼き」を求めて街に繰り出した。沢山のお好み焼きのお店が集まっている「お好み焼き物語、駅前広場」にはいることに決定。

 ビルの中のお好み焼きや街を歩くのは他では味わえない経験だった。ずらりと並んだお店の陽気なオーナー達から、前をとおるお客に「うちの店がおいしいからよっていきな」と声がかかる。 皆、声が大きく威勢の良いオーナーの店に引き付けられ、はいってしまう。

 お店では2つの種類のお好み焼き と他のメニューを注文したがとてもおいしかった。皆その夜の食事におなかもふくれ、大満足であった。

 翌日、広島平和記念公園を訪れた。原爆ドームを見た時の印象は強烈だった。 私には、建物が第二次世界大戦中に街全体を破壊したほどの原爆にあっても形をどうにかとどめているのが信じられなかった。原爆ドームは、恐ろしいほど静かで、われわれは、1945年8月6日に原爆が落とされたのその日、広島の人々が受けた痛みにおもいをはせた。

 広島原爆平和記念館に向かう途中に、原爆犠牲者を悼む「平和の灯」があったが、ここからは、一直線に原爆ドームが見渡せた。

 平和記念館の訪問は、本当に価値のあるものだった。原爆投下がもたらした悲劇を学ぶことができた。破壊の大きさを見、運命の日とそれ以降の年月に広島の人々に起きた苦しみをおもうと、ひどく動揺し、いたたまれない気持ちになった。

 しかし、広島の人々が、惨禍を乗り越え、世界平和の提唱者となったことには、とても勇気づけられた。また、広島市が世界から核兵器を廃絶することに絶え間ぬ努力を続けていることに、感動した。

 広島平和公園から、船で日本三景の一つで、世界遺産に登録されている宮島に向かった。 島につくと、皆、ゆっくりと海に浮かぶ有名な鳥居と厳島神社の方へと歩いた。

 島の住人であるおなかをすかした鹿や、名物のかきやあなごをだすレストラン、様々の特産品、しゃもじや、鹿やさるの人形、そしてもみじまんじゅうとよばれる和菓子を売っているお土産やさんを覗きながら歩いた。

 海に浮かぶ鳥居の前にきたとき、なぜこの場所が日本で観光客に人気があるのかわかった。 鳥居は荘厳そのもの。くっきりとした朱色は、くもりの空とは対象的だった。

 厳島神社もとてもおもしろい建物だった。廊下沿いにカラフルな酒樽が壁のようにつらなって、能舞台まで続いていた。この暗いこげちゃ色の廊下と能舞台は、神社の他の朱色の建物とは趣が全く異なっていた。神社からみた鳥居もとても印象的だった。潮が満ちてきた時に神社と鳥居をみればもっと感動的だとおもった。

 厳島神社の見学を終えると昼食の時間。広島の名物、かきとあなごに兆戦してみる。当然のことながら、新鮮で、とてもおいしかった。

 レストランをでると、外は爽やかにはれわたっていた。宮島とこの楽しい3日間の旅をしめくくるのにふさわしいお天気となった。


 日本の様々な場所をまわり、観察し、新しいことにトライし、見知らぬ土地の人々の話を聞くことができた。本では決して得られないことを学んだ。この3日間、少しあわただしかったけれど、思い出に残る、楽しく価値ある旅であった。


以上

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