忠臣蔵と義士祭(2009年12月14日)


 日本で「忠臣蔵」「大石内蔵助」「赤穂浪士」のいずれも知らないという人は少ないでしょう。そのくらい馴染みのあるお話でも、外国人にとっては「なんだかよくわからないもの」でしょう。
なにしろ、何百年も前におきた”事件”です。
 どこの国や地域でも、言葉にしにくいながらも、受け継がれてきている精神があるものです。この「忠臣蔵」というお話が永く親しまれてきたのは、日本人に強く訴えかけるものがあったからだとすると、そのストーリーを知り、いわくある地を見てみることが、日本文化や日本語を勉強している外国人研修生に、言葉にならない「日本的」なものに触れる機会になるのでは…。
 と、いうことで、中国とオーストラリアの研修生が、事前にネットや書籍などで下調べしたうえで、品川の泉岳寺で行われた「義士祭」に行ってきました。
 外国人研修生の眼に何が映り、どんなことを感じたのでしょうか?            

     

(日航財団 吉田記) 

   

忠臣蔵と義士祭

2009年12月18日
北京外国語大学
沈 美玲

「忠臣蔵」は日本ですごく有名で、多くの人々に親しまれていると聞いた。歌舞伎などで演出されているだけでなく、これまで幾度も映画化されたという。私も大学で先生に勧められて、ざっと見たことがある。

ストーリーの主旨は、武士の主人(主家)への忠義である。播州赤穂藩主・浅野長矩は、高家旗本・吉良義央に式典のための装束について正しい情報を教えてもらえず、かなり恥を掻いた。それが原因で、浅野が吉良に憎しみを持ち、江戸城・松の大廊下で法度とされているにもかかわらず抜刀し、吉良を殺傷した。

しかしこの後、浅野だけが罪に問われ、余儀なく切腹となった。その結果を、大石内蔵助をはじめとする赤穂藩家来四十七士は不満に思い、ついには主人の仇討ちとして、吉良邸に討ち入って吉良を殺し、その首を主人の墓に供えたという。仇討ちに向かう隊列が止められた際に、大石内蔵助が通行書を読んでいるふりをしながら、実はその巻物は白紙であったということが一番印象的だった。何も見ずに、その場で難しい文章を作るのは大変な才能だ。

赤穂浪士が仇討ちをした日は元禄15年12月14日深夜なので、毎年の12月14日が義士祭の日と定められた。その日、浅野長矩と四十七士が葬られている泉岳寺でイベントがあると知って、見学することとした。現地に行くにあたり、「忠臣蔵」に関するキーワードを出してもらって、私とテリはあらかじめネットで資料を集め、いろいろ勉強し、研修準備をした。

いよいよ14日が来た。案内してくださるのはその歴史に詳しい塩崎さんであった。駅を出てしばらくすると、にぎわっている泉岳寺が目に入った。焼きそばやたこ焼きなど様々な屋台が両側に並んでいて、日本の祭ならではの風景と感じた。

山門のところに着いたら、両側に飾っている提灯の家紋に気付いた。アニメ「ナルト」のキャラクター佐助の写輪眼に似ているので、大変印象に残った。後で調べたら、それは右二つ巴という大石内蔵助の家紋だとわかった。門のところだけでなく、墓所まで続く道の両側にもいっぱい提灯が飾ってあるので、赤穂浪士への深い思いをしみじみ感じた。

そして、本堂の左側にある四十七士の墓所に行って、お線香を供えた。血染めの石・梅と首洗い井戸などの遺跡もそのままそばに残っているので、塩崎さんの説明を聞きながら見学した。

今般の研修で一番驚いたのは、参拝者数の多さである。私たちが到着したのは午後4時半過ぎで、もうかなり日が暮れていたのに、やはり人がいっぱい集まっていて、墓所に入るには40分も待たなければならなかった。たとえ三百年が経っても、義士たちへの敬意は衰えていなかった。平和になり、また、侍の精神が失われていく現在こそ、よりいっそう尊敬の気持ちが含まれているであろう。また、日本人の「普通の人でも死んだら神様になる」という神道の発想にも深いかかわりがあるだろうと思っている。            

以 上

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義士祭 - 泉岳寺、東京 -

2009年12月18日
西シドニー大学 大学院
テレサ・トリン

日航財団の研修生である私は、有名で人気のある義士祭――有名な赤穂浪士義士たちの最期の地である品川の泉岳寺を見学する機会をもらった。
義士祭は毎年12月14日に東京で開催され、有名な赤穂浪士の物語に由来する赤穂浪士の物語は事実 に基づいていて、義士祭は浪士たちの忠義と忠誠をほめたたえている。彼らは主人であった浅野長矩のため、吉良上野介義仲に復讐をし、最後に全員切腹を仰せつけられた。四十七士の遺骨は主人の浅野長矩と一緒に泉岳寺に埋葬されている。

お寺の境内から帰る人ごみを通り過ぎながら、地下鉄の泉岳寺駅からゆっくりと泉岳寺に行った。お寺に近づくと、かすかなお香の煙と屋台の食べ物のにおいが混ざった香りが流れてきた。いつもそうなのだが、私の興味はまたついさまざまな屋台の売っている食べ物にいってしまう。食べ物屋台だけではなく、もっと奥には夏のお祭りで見たゲーム屋台もあった。もともと義士祭はお祭りではなく、義士たちを偲ぶイベントなのだが、屋台が出ていて、騒々しく通行人に勧めているので、お祭りの印象もある。

墓所に近づいていくと、どうしてこの道に人が少なかったかが分かった。理由は、四十七浪士と浅野長矩に敬意を表すため、皆が列に並んで根気強く待っているからだった。その列を見ただけでは、冬の寒い中、列に並ばなければならないことにも感慨はなかったが、待っている間に日航財団の指導スタッフが、浅野長矩がその上で切腹したと言われる苔むした石や、浪士たちが吉良上野介義仲の首を洗った井戸など、義士たちのことをもっと詳しく説明してくれた。この、ちょっと殺伐とした、でも多くの逸話や歴史を秘めた石を間近に見て、現実と超現実が交錯する不思議な経験だった。

しばらく待って、やっと赤穂浪士と主人である浅野匠守が埋葬されている墓場に入ることができた。忠義な浪士たちとその主人それぞれのお墓に御参りする前に、お供え用のお線香を買った。ほかの人々と共に、一つのお墓から次のお墓に、順番にお参りしながらゆっくりしたペースで進んだ。各人のお墓の前ではそれぞれお線香を供えながら、お祈りをした。お墓の後ろにある卒塔婆には各浪士の名前だけでなく、亡くなったときの年齢まで書いてあった。その年齢は18歳の少年から60代後半までである。そして、お墓の前にあった大量の灰と燃えているお線香は日本の人々がいかに浪士を崇敬しているかの証拠であった。通り過ようとしたとき、お線香の白い煙が漂ってきて、私たちを包み込みんだ。煙は目に染みただけでなく、私の視界を遮り、高く掲げられた提灯からの黄色い光が、真っ暗な墓場をもっと不気味な感じにした。

お参りを済ませると、私たちは多くの明るい提灯でいっそう美しくなっている夜のお寺の境内へゆっくりと戻った。
もちろん、お寺を出る前に、その日に売っている食べ物の一つ――タイヤキを食べることを忘れなかった。カリカリで、お魚の形をしているカスタードクリーム入りのタイヤキは私の手を暖めてくれるだけでなく、体にも温もりを感じさせ、本当に美味しかった。

泉岳寺の見学は本当に興味深い、そして魅力的な経験だった。義士祭が事実に基づいていることを知ることができて、わくわくした。それに、四十七浪士の主人、浅野長矩に対するあっぱれな忠義と復讐のためなら何でもする不屈の精神はまことに印象的だ。だから、四十七浪士の物語は日本人の心に深く刻まれているのだろうと思った。

その忠実な勇者たちと主人浅野長矩のお墓場を訪れる機会があったことは、本当に日本での忘れられない経験の一つなった。

以上

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