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(研修論文)

ハイ・コンテクストとロー・コンテクストの視点からみる中国と日本

2014.8.21
北京外国語大学  周 怡



 アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールは、文化について語る際に「ハイ・コンテクスト」と「ロー・コンテクスト」という概念を持ち出した。ハイ・コンテクストの文化におけるコミュニケーションまたはメッセージでは、情報の多くが身振り手振りやその場の雰囲気の中にあるか、または双方の個人に内在されており、メッセージの言葉自体には情報が非常に少ないという。そのため、話し手の意図を理解しようとするとき、言葉そのものの意味だけに注目するのではなく、文脈や背景、アイコンタクトや表情に頼る傾向が強い。そのようなコミュニケーションを成り立たせる前提として、お互い共通の知識や価値観、習慣などが求められる。したがって、比較的コンテクスト度の高い文化を持つ国は大抵歴史の長い、複雑な文化を持っている。代表的な国として挙げられるのは中国、日本、フランス、アラブ圏など。それに対して、ロー・コンテクストの文化の場合、伝達しようとする情報の大半は明白にコード化されているという。つまり、明確な言葉でしかコミュニケーションが進まないことが多い。なぜなら、互いにコンテクストを共有していないため、その分はっきりした言葉で伝える必要があるからだ。代表的な国として挙げられるのは、アメリカ、ドイツ、スイスなど。 以下では、ハイ・コンテクストとロー・コンテクストの視点から中国と日本の共通点と相違点を見てみたいと思う。

 
 中国も日本も昔から農業や漁業といった共同作業を中心に生活を営んできた。共同作業においては、人々の繋がりが密接となり、お互いの関係性が重要視され、経歴や習慣に共通する部分が多くなる。その結果、明白な意思表明がなくても、その文脈や流れ、さらにその時の状況などから聞き手は話し手の意図、時々裏の意図まで読み取れ、反応できるようになったと考えられる。

 中国の古代文化の代表作である漢詩を見てみよう。漢詩の作者は隠喩、象徴、景色描写などの表現技法を使い、あえて気持ちを率直に言葉にしない傾向がある。例えば、李白のこの漢詩:(括弧内の訳はインターネットから切り取ったもの)

黄鶴楼送孟浩然之広陵
故人西辞黄鶴楼 (故人 西のかた 黄鶴楼を辞し)
烟花三月下揚州 (烟花 三月 揚州に下る)
孤帆遠影碧空尽 (孤帆の遠影 碧空に尽き)
唯見長江天際流 (唯だ見る 長江の天際に流るるを)


 最後の二句をみてみよう。友人を乗せた船の帆が遠ざかっていき、やがて尽きない空に吸い込まれたように消えた。ただみえるのは、この天の果てまで流れていく長江の水。名残惜しい、寂しいといった明白な表現は見当たらないが、前句の「故人」、「辞」による背景説明、加えて「孤」、「唯」のような感情文字をヒントにすると李白の気持ちが分かるように構成されている。

 次に、日本の短歌を見てみよう。例えば、阿倍仲麻呂の短歌:
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 この歌には、当時、唐に留学している作者が日本に帰る前の送別会で詠んだという背景がある。果てない空を見たら美しい月があった。この月はふるさとの三笠の山に出る月と同じかな。歌の中に露骨な情緒は見えないが、月や故郷の山の名を聞いて、その場にいた人は阿倍仲麻呂のホームシック、そしてやっと帰れるという喜びを感じ取れるだろう。

 このように、中国も日本も古くから、婉曲と含蓄の文化を持っている。人々は感受性が高く、余計な説明はいらない、そして多少の論理的な飛躍は許される。したがって、曖昧な表現はそれほど伝達に支障なく長年に渡って使われてきた。

 中国語には、このような言葉がある。 「只可意会,不可言传」 心で悟るだけ、言葉では伝えられないという意味だ。例えば、禅、道のような奥深い抽象的ものに関して、言葉の説明は無力に感じる。自分で体得していくしかない。また、日常生活のなかでは、説明しがたい事情や微妙な状況に関して、とりわけ言葉があやふやになってしまう。「これ以上ははっきり言えない、残りは自分でわかってほしい」という心理が働いている。ある意味、聞き手への期待と信頼が見られる。

 さらに、表に言っている言葉と実際に伝えたいメッセージとのマッチ度が低いことも多々ある。言葉の隠れん坊と例えていいだろうか。「A」と言っているが、真意は「B」。例えば拒絶や批判など相手に不快感を与えてしまうような状況や、明示的な発言が好ましくない場合ではよく使われる。この点について、中国人も日本人も共感できるはずだ。 また、中国にも日本にも社交辞令の習慣がある。有意味な言葉に聞こえるが、実は一種の挨拶に過ぎない。これに関してロー・コンテクスト文化に慣れている人は不思議に思うかもしれない。例えば、日本も中国も別れの時に「また今度遊ぼう」「また今度ご飯に行こう」などとよく言うが、本気で実現させるつもりで言っているかはまた別だ。ハイ・コンテクストの人間は普通に聞き流すかもしれないが、それに慣れない人間は期待してしまい、がっかりしてしまうかもしれない。

 以上のように、ハイ・コンテクストのコミュニケーションでは、聞き手の理解力と推理力が大いに試される。つまり、人々の間に暗黙のルールが存在し、その敏感度が求められる。それに対して、ロー・コンテクストのコミュニケーションでは、主に話し手に正確な意図を伝える責任が課される。相手が分かりやすいようにストレートな表現や論理的説明が必要とされるのである。

 コミュニケーションの点において、中国にも日本にも明らかにハイ・コンテクストの特徴が見られると言える。しかし、面白いことに、日本にはロー・コンテクストの特徴も見られる。前文には触れていないが、ロー・コンテクスト文化の特徴の一つとして、時間観念が強いことがある。それに反して、ハイ・コンテクスト文化では、時間の扱いに融通性が見られる。次に、時間観念において日本と中国の違いについて述べたいと思う。

 日本人が時間に厳しいというイメージはすでに定着していると思う。実際、日本に来て、そのイメージがさらに深まった。個人の時間厳守の意識が高いことはもちろん、交通機関、特に鉄道の時間の正確性も世界に驚かれる。発車時刻は分単位ではなく、秒単位。1分以上遅れたら遅延とみられ、お詫びのアナウンスが流れる。海外と比べても基準が高いと言われる。そして、バスにも時刻表があり、スケジューリングの際、非常に役立つと言える。それに対して、中国では汽車や飛行機には時刻表があるが、地下鉄やバスにはない。無論、発車時刻は決まっているが、乗客はその情報を把握していない。そのため、長期的同じ路線を利用する人なら、およその発車時刻が掴めていくが、初めての人にとっては確かに不便であり、遅刻しないようにするためには余裕を持って出かけなくてはならない。基本的に、中国人にとって、いつ来るかも分からないまま列車とバスを待つことは当然だし、バスストップに着いてちょうどバスが来たことにむしろラッキーと感じるのが普通だろう。

 日本の交通機関の正確性はスケジューリングの強力なサポーターとも言える。スケジューリングと言えば日本の手帳文化が思い浮ぶ。大手本屋には大体手帳のコーナーがあり、ブランドやレイアウトごとに分けられている。手帳の使い方に関する著書も売れ行きがよく、サラリーマンだけではなく学生や主婦まで手帳を持っているのではないかと思う。広く手帳を活用する日本人は時間・予定の計画性において、恐らくロー・コンテクスト文化の国にも劣らないだろう。日本人が作る予定表を見れば、10:08のような時間も珍しくない。中国人にしてみれば、細かすぎとあきれてしまう。なぜなら、中国人の時間感覚はそこまで敏感ではない。「八時」よりも「八時ぐらい」という表現が多く使われる。

 また、日本人には「予定通り」が好ましいようで、調整や変更を避ける傾向が見られる。これは時間・予定に柔軟な対応をしている中国人とは正反対かもしれない。極めて計画的な人間ではない限り、多くの中国人は予定や計画をあまり意識していない。その場の状況や都合・気分によって、予定は自由自在に変えられる。たとえいきなりの用件にしろ、それを優先すべきだと判断した場合、本来の予定はいくらでも後回しできる。そのため、以前から国際社会に時間にルーズ過ぎ、勝手、アポイントメント意識が弱いなどとずいぶん批判されてきた。私は、ビジネスのルールと常識として約束や期限を守る態度は欠かさない。しかし、生活の面においては臨機応変の柔軟性を保つほうが、人間関係の円滑化にもつながると考える。なぜなら、誘いの神様はいきなり降りてくるからだ。  実際に、個人の事情や作業を先送りして、なるべく友人の誘いに応えることが多い。デッドラインに間に合わないなどのピンチなら友達も理解してくれるが、いつまでも自分の事情で断ると、「せっかく誘ったのに」という思いを与えてしまうし、次第に誘われなくなる。家にも「今日お邪魔したいけど」のような急な電話をもらうパターンが多い。「いまから」「これから」「今日」「今晩」といったあまり間がない時間設定も失礼にはならない。むしろ、時間に構わず気軽に誘えるほど、親密な関係を示している。そして、相手が自分のために予定を変えてくれたことを知ったら、誘った側として嬉しいこと。私との友情が大事にされているなと。

  では、ハイ・コンテクスト文化同士なのに、なぜ時間において中国と日本がこれほどの差が出てくるか。もっとも鍵となるのはそれぞれの近代化のプロセスだと言える。日本も昔はルーズだったのだが、鎖国を解いて、鉄道や工場の設立、アメリカの科学技術や管理システムを導入して、欧米に早急に追いつく近代化を目指したこと、さらに、高度経済成長期に、効率が命という意識が強まり、次第にこのような結果になったという。中国と比べて早い段階で世界のビジネス事業に歩調を合わせていた。一方、中国も鉄道や工場の導入、近代化の試みがあったが、徹底していなかった。工業化のアクセルを踏んだのが比較的に遅れていて、そして今でも農業が国民経済の基礎となっている。そのため、時間管理の意識はそれほど浸透していない。もっとも、近年は特にビジネスにおいてそれが重要視されつつあるが。

 グローバル化の初期の段階では、国・地域それぞれが持つ文化が異なり、コンテクストの共有ができないため、ロー・コンテクストのコミュニケーションのほうが通用する。日本にも中国にもそれぞれロー・コンテクストの特徴が見られるはず。ただ、グローバル化の前進につれ、次第に異文化理解も成熟していくだろう。カルチャーショックが続く中、自国の文化を発信したり、他国の文化を取り入れたりする。いろいろな文化が融合し、共通し合う部分がどんどん多くなり、最終的に国際社会は、ハイ・コンテクスト社会になっていくのも不思議でない。しかし、私は世界全体が究極のハイ・コンテクスト社会になることは望まない。なぜかというと、世界が均一化してしまうと面白みがなくなるからだ。国・地域各々異なる部分があるからこそ、互いに刺激を与えることができるし、自国のものに囚われず、発想を膨らませて行き、新しいものを生み出すことができる。そうしてまた世界、人類の発展につながっていくのではないかと考える。したがって、中国と日本にもバランスよく伝統を保ち、独自の文化の味を持ち続けてほしい。それこそが魅力であり、ほかの国と区別がつく個性である。また、ひとりの語学勉強者の立場から言うと、以上のように中国と日本を比較することにより、日本文化への理解につながる一方、今まで意識していない自国の文化の再発見もできた。そうした理解と再発見を楽しみ続けるためにも、違い、個性があっていいと思う。  



以上






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